Vol.4 合同曲「追分節考」の紹介
- 合唱団 ぬっく
- 4月23日
- 読了時間: 8分

⭐️追分節考ってどんな曲?
柴田南雄作曲《追分節考》‼️
とても一言では語れない、あらゆる側面からチャレンジングなこの作品‼️
少々長くなりますが、《追分節考》を構築する3つのキーワードを基に一緒に読み解いていきましょう。
💗お忙しい方‼️このキーワードと一言概要だけお読みいただければ十分です‼️
①アンチ西洋音楽
この作品に作者はいません‼️再現性はありません‼️我々が演奏したものが常に完成形‼️
②シアターピース
音のみならず動きも含めた全てが作品を構築する要素‼️
③「追分節」を始めとする様々な音素材
全ての素材が絡み合い《追分節考》は成立する‼️
①アンチ西洋音楽
皆さんが普段使う楽譜はどんな見た目をしていますか?
始まりがあり、終わりがあり、リズムがあり、テンポがあり、和声があり……それらは西洋音楽の長い歴史の積み重ねに基づく記譜法を用い、作曲者が生み出した形です。その形をなぞれば、奏者・解釈は様々あれど、一定の再現性を保つことができます。
さてそこで《追分節考》の楽譜をご覧になって皆様いかがでしたか?「なんじゃこりゃ‼️」と思われた方も少なくないでしょう。それもそのはず、この作品の楽譜は「民謡やら朗読やら奇声やら唸りやらの音素材が載っているだけの本」であるといっても過言でありません。
「作曲者」である柴田南雄は、あらゆる音素材を用意し、それぞれの音素材に記号を割り振りました。演奏にあたっては「うちわで示される記号の音素材」を、「その音素材の歌唱に割り当てられた人間が歌う」という2点のみを指示しています。それらの歌唱のタイミングは完全に指揮者と奏者に委ねられており、そこに一定の再現性はありません。つまり始まりも終わりも決まっていない……テンポもなくいつ何が同時に起きるかも定められていない……ゆえに求められている和声などない……といったように、五線譜こそ便宜上用いられているものの、いわゆる「西洋音楽」の形式を完全に放棄しています。これはひいては作品から「作曲者」の存在の死を意味しています。
なぜ作曲者の存在を退けることを目指したのか?柴田南雄はかねてより西洋音楽における「作曲家中心主義」に疑問を持っていました。「ベートーヴェンは他の何者からも影響を受けず、ベートーヴェンただ一人によって成立させられている」といったような考えをもつ音楽評論家は決して少なくありませんでした。そのような評論家たちは、作曲家同士が与え合っているであろう影響を認めず、現代音楽にインスピレーションを与えるような民俗音楽をつまらないと言う傾向にありました。
それに対し柴田は、次のような言葉を残しています。
「テクスト(音楽の文体、語法といってもよい)は、個人を越え時代を越えて複雑に絡み合っており、一人の「天才」の中で完結してなどいない。」
現代音楽にも造形が深かった柴田は、なおのことこの「文脈」への注目を強くしていました。作品はあらゆる時代的、人物的、社会的な文脈が絡み合い成立する……この究極の実験として、柴田南雄は《追分節考》を構成しました。
②シアターピース
シアターピースという語句の意味は多岐に渡るため、今回は少しだけ原義と、「柴田南雄」的文脈における意味合いを解説‼️
「シアターピースってあれやろ?ホールの中でなんか、歩くし、動くやんね?」と思われた方、基本的にはその認識で大変に十分です。
シアターピースという言葉は、1960年代の欧米にて不確定性(偶然性)の音楽と共に登場しました。直訳すれば「劇場音楽」となり、これは「その場(劇場)で起きる音全てが音楽となりえる」という考えからきています。ホールの舞台上で音楽家が奏でる音のみが音楽であり、またそれ以外は音楽ではないという見解が当然であるという近代的な音楽観に対し、「音楽とは何であるか」と問い直した現代作曲家らによる取り組みでした。そこでは演劇要素を用いながらも、あえて音楽と動作を同調させないことにより音楽を不条理劇化するなどして、音楽に「意味を与えないこと」を主眼としていました。
その一方で柴田は、自身のシアターピース作品において必ず何らかの概念、理念の表現を意図しました。例えば≪追分節考≫において「男声は会場中を歩かせ、女声はステージ上で留まらせる」といったように奏者に動作を要求していますが、これは楽曲の素材の一つである江戸時代の民謡「信濃追分」を意識したものです。街道で馬子引きに歩きながら歌われるものとしての「信濃追分」、また御座敷唄としての「信濃追分」のイメージとなっており、楽曲構成における重要な要素となっています。このように柴田が制作したシアターピースは、非常に複雑かつ多様な表現を含んでいるため、動きも重要なファクターとなります。
③「追分節」を始めとする様々な音素材
《追分節考》は様々な音素材によって構築される作品です。色々あって何が何やらだったと拝察いたします。その反応で正解です‼️
1973年、柴田は当時の東京混声合唱団正指揮者田中信昭から、「日本民謡を専一に素材とした」楽曲を作ってほしいという委嘱を受けます。柴田はあらゆる日本民謡の中から「信濃追分」を採用し、《追分節考》を制作しました。その理由について柴田は次のように述べています。
「「追分節」を選んだのは、典型的な日本民謡であると同時に、この種のいわゆる追分形式の歌は[モンゴルの長歌やハンガリーの農民歌などにも見られるように]ユーラシア大陸を東西に貫いて広く分布する様式である。すなわち、「追分節」の採用は民謡や民族が文化を貫通して伝播することを認識するためで、日本的情趣の表出が主目的ではない。」
先述の通り、《追分節考》は「文脈によって成り立つ作品=作者中心ではない作品」であることに主眼を置かれ制作されました。アンチ西洋音楽の視点を踏まえても、西洋中世以前や非西欧芸術の匿名性の実現を策するために、民謡を使用していることは意義深く思われます。
そして印象的な素材である「俗楽旋律考」……これは音楽理論家であった上原六四郎によって書かれたまさしく西洋音楽至上主義そのもの、日本に土着してきた音楽である民謡を「野卑なり」と述べる文書です。これを女声が読み上げ、男声が「非西洋音楽的」な金切声や怒号をもって抗議するという演出は、西洋音楽一辺倒であるアカデミズムへの反抗を露骨に示します。
さてそのほかにも女声のヴォカリーズは作品の主軸となる民謡を構成する音によって描かれていること、追分を象徴する器楽である尺八を用いていること等々語り出したらキリがありませんが……全ての素材は「即興的」に組み合わされます。
先述のとおり、うちわによってその都度示された音素材が流れるため、定まった流れはなく、常に「即興的」に演奏される《追分節考》。この即興性を用いて、柴田は「作者」の存在を退けたと考えられます。「民謡」という本来平等的なものを人びとが自由に歌うーーー柴田は「日本民謡」を用いて「非西欧芸術の匿名性」を表そうとし、この即興性についても「作曲家中心主義」を批判するような考えを絡めました。
これに関して柴田は次のような言葉を残しています。
「《追分節考》には作曲者が創造したいかなる旋律も和声も存在しない」。
追分……本来は街道の分岐点をいう言葉ですが、それぞれの分岐を辿る我々が一堂に会して与えられたそれぞれの音を発する。「花ぬそこぉらすこんさぁと」での出会いでしか生まれ得ない《追分節考》を楽しみたいですね‼️
私たちで、西洋音楽を、ぶっこわす‼️‼️‼️
(文責:合唱団そうなそ 佐々木優実)

⭐️ 指揮者の推しポイント!
《追分節考》では、音をわずかにずらしながら歌うことで、音がにじみ、揺らぎ、まるでホール全体が楽器になったような感覚を生み出します。
つまり、私たちがつくりあげるのは単なる「音楽」ではなく、「響きが広がる空間」。自分の声がどんなふうに空間に溶けていくのかを意識すると、この曲の面白さがぐっと深まります!
そしてもう一つ、この曲の最大の推しポイントは、毎回、響きが違うこと!
普段私たちが扱う合唱曲は、しっかり練習すればある程度「いつも通り」の演奏ができます。でも《追分節考》は、その日の空間や歌う人、ホールの響きによって、毎回まったく違う音楽が生まれるんです。
つまり、これは一期一会の音楽。 前日のリハーサル、当日のリハーサル、そして本番……どれ一つ同じものにはなりません!「おっ、こう来たか!」という発見があるたびに、音楽がどんどん変化していく。演奏するたびに違う景色が見える、そのワクワク感こそが、この曲の魅力です!
⭐️ 指揮者からの一言(選曲理由や意気込み)
今回、《追分節考》を選曲した理由は、合同曲の練習時間が限られている中で、最小限の時間で効果的に仕上げられることが重要なポイントだったからです。
私は以前、歌い手としてこの曲を経験したことがあります。その際、響きが空間に広がり、歌うたびに異なる音楽が生まれる感覚にすっかり魅了されました。この曲には、民謡本来の「誰もが自由に歌えるもの」という平等性が息づいており、それが歌うたびに違う響きを生み出す即興性につながっています。おゆみちゃんの説明の通り、作曲者の柴田南雄は、日本の民謡を用いることで、「非西欧芸術の匿名性」、つまり音楽は特定の誰かのものではなく、人々のものとして共有されるべきだという考えを表現しました。そしてこの即興性こそが、「作曲家の意図を忠実に再現する」ことを前提とする西洋クラシック音楽とは異なる、自由で開かれた音楽のあり方を示しているのです。
さらに、山口県、兵庫県、東京都と、普段はそれぞれの地域で活動している私たちが一堂に会し、限られた時間の中でどれだけ一体感を持って演奏できるのかが、この合同演奏の醍醐味でもあります。民謡が時代や土地を超えて歌い継がれてきたように、異なる地域で活動している私たちが、それぞれの声を持ち寄り、共に響きを作り上げること自体が、《追分節考》の持つメッセージと重なります。
この曲は一人ひとりの声が持つ個性を活かしながら、音楽を作り上げていくことこそが大事です。だからこそ、楽譜に書かれた音符だけでなく、「今、この空間でどんな響きが生まれているのか?」を意識して歌ってみてください。私はその流れをそっと導く役割でしかありません。
最終的には、この曲を通して、音楽とは誰か一人のものではなく、共に作り上げ、響かせるものなのだということを、歌い手だけでなく、観客の皆さんにも感じてもらえたら嬉しいです。
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